父親のことを「お父さん」と呼んだことがない

子供のころ、車に乗る時は必ず後部座席に座らされた。でも一度だけ助手席に座らせてもらったことがある。そのとき助手席から見た父親の横顔が私の記憶にある最後の父親の姿。末期ガンで最後の旅行になることがわかっていたから助手席に私を座らせた、と後から知った。

 

生まれてすぐに両親が離婚をして、私は母親に引き取られた。母親からは「お父さんは死んだ」と聞かされいた。たまに会いにくる父親のことをずっと親戚か知り合いの優しいおじさんだと思っていた。だから私は実の父親と何度も会っていたのに「お父さん」と呼んだことがない。

 

父親はその後しばらくして亡くなった。告別式で母親が「私はいいけれどこの子は娘なので参列させてほしい」と言った。その瞬間あの優しいおじさんが父親だったことを知った。中1の夏休みだった。

 

なぜ「お父さんは死んだ」と教えられていたのか理由はわからない。親には親の考えがあって、すべてを子供に話さなくてもいいと思う。なんでも正直に話せばいいとは限らない。私にとっては、子供のころに誰だかわからいけれど優しくしてくれる人がいたことの方が大切だし、そのことをとても感謝している。

 

もし、あの世で父親に会えたら私はなんて呼べばいいのかわからないけれど(今更お父さんもないかなと思ったりする)、買ってくれた本を何度も繰り返し読んだことや、連れて行ってくれたレストランの食事が美味しかったことや、最後の旅行が楽しかったことを伝えたい。そして「いい人生を生きた」と胸を張って言いたいと思う。